以下のコラムは、京都いのちの電話ニュースレター第112号(2019年3月発行)に掲載された拙稿を、転載したものです。
私たち援助者の元には、多くの思春期の人たちも来談される。彼らが語る悩みは、家族関係に関するもの、友達や異性との関係にまつわるもの、そして将来への不安に関するものなど様々だが、それら個別の悩みの基底には、かならず彼らの存在の不確かさから生じる不安が横たわっている。
この不安を鮮やかに描き上げたコミックの一つに、阿部共実の『月曜日の友達』(小学館)がある。
この作品の主人公は中学1年生の女子、水谷茜だ。彼女は学校では同級生からの疎外感を抱き、家庭では優秀な姉と比較されて居場所がないと感じている。落ち着く場所のない茜は、ある月曜日の夜、家を飛び出して学校へ向かうと、超能力の特訓をしているのだという同級生男子、月野透の姿を発見する。互いに惹かれあった二人は、毎週月曜日の夜に超能力の秘密の練習を行おうと約束する。
しかし些細なきっかけで二人の関係に行き違いが生じ、茜は再び孤独の中に置かれる。その時、茜はこうつぶやく。
月野がいなくなったらこれだ。
姉に抵抗することや、月野といることで、自分の存在を確かめていた。
私自身には何もない空っぽな人間だと思い知らされる。
確かに私は自分のことをちゃんと考えたことがない。
自分の未来をしらないふりし続ける人間は、幼い声そのままのしわしわに老いた子供になるんだ。
私は何になりたいんだろう。
私はどこに向かっているんだろう。
私は本当はどうしたいんだろう。
(阿部共実(2017)『月曜日の友達』小学館)
孤独になった茜が直面したこの問いは、思春期の中にいる誰もが抱える問いである。
自分はどこへ向かうのか? 自分は何をしたいのか?――
様々な悩みの基底部に横たわるこの問いに直面すると、彼らは自分がまだ何者でもないことに気づいて強い不安にさらされる。しかしこの問いから逃げていては、本当の意味で大人になることができず、茜の言う「老いた子供」になるばかりだ。だから彼らにとって、この問いについて考えることは、大人になるために欠かせないステップとなる。
しかしこの不安に直面することは、彼らにとって大変苦しいことでもある。それゆえ私たち援助者が、存在の不確かさに関する彼らの不安を受け止めようとするのなら、私たちもまた自らに問いかけねばならない。私は、本当に納得のいく人生を送ってきたのか。残された人生を私はどう生きたいのか、と。そう自らに問い直すことの苦しさを実感することによって、私たちははじめて彼らの不安の重さを受け止めることができる。