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精神分析的心理療法とはどのようなものですか?
精神分析的心理療法は、19世紀末ウィーンの神経学者・精神科医S.フロイトによって始められた「精神分析」による治療法を、修正・応用した心理療法です。ごく大まかに言うなら(国によっても違いますが)1回1時間程度の面接を、週4回以上行うものが精神分析療法、それ以下の頻度のものが精神分析的心理療法とされています。面接では毎回、治療を受ける人はソファのような長いす(カウチ)に横になって、その時心に浮かんだことをそのまま言葉で話してゆくように求められ(自由連想)、セラピストは基本的に黙って聴いていますが必要なときには言葉をはさみます。精神分析的心理療法ではカウチを使用せずに、それぞれが一人がけの椅子に腰かけて行う場合もあります。
正式な精神分析療法は、治療を受ける人に経済的にも時間的にも大きな負担を強いるものでもあるため、精神分析の方法をより面接頻度の少ない治療に生かし、またより広範な人たちを対象に実施できるように、フロイト以降の分析家たちが研究・開発してきたのが精神分析的心理療法であるといえるでしょう。
面接頻度は異なっているものの精神分析的心理療法は、治療についての考え方やその実施方法について、精神分析から多くを引き継いでいます。その主な点として、次の三つが挙げられるでしょう。
① 治療の「うつわ」と「中身」
治療はそれが行われる場所や時間・頻度といった、いわば治療をいれる「うつわ」と、その中で生じてくる治癒の過程という治療の「中身」によって成り立っていると考えます。そうして治療の「中身」に劣らず、それをいれる「うつわ」を大切に扱います。つまり、治療を受ける人と行う人が出会う場所や時間・頻度をできるだけ一定に保ち、整えておくよう努めるのです。たとえばスポーツにおいては、ちゃんとしたルールの中でこそ高度な技がぶつかり合い、よい試合が生まれるように、よい治療過程を生じさせるためにはそれを行う条件を整えておく必要があると考えるのです。
② インデックスとしての症状
目に見える症状や悩みは、その背後にあって目には見えないこころの複雑な働きが、一部分見える形になって現れたものであると考えます。日本を代表する精神分析家の一人 土居健郎はこのことをさして、症状は「インデックス」であると表現しました(土居健郎『精神療法と精神分析』)。精神分析的な治療は症状のみを消そうと働きかけるのではなく、この目には見えない心の働きを解きほぐし知ることによって、それが再び自然な形でまとまり、おさまることを目指します。
精神「分析」というと、何か心をバラバラに切り分けてしまうような冷たい響きに聞こえます。しかしフロイトが「分析」といった意味は、むしろ心を解きほぐす「分析」作業に続いて生じる作用、つまり心自体にそなわった力によって、心の中にあったさまざまなものごとが正しい結びつきでもって整理され、おさまるべきところにおさまっていく「統合」の作用を前提してのことでした(S.フロイト『精神分析療法の道』)。つまり本当の治療的な作用は、もともと心に備わっているまとまりをつける力・統合へ向かう力にあるのであり、精神分析はそれが働き始めるきっかけをつけるに過ぎないと考えていたのです。
③ 悩むことの意味
悩むことをたんに時間の無駄であったり、マイナスであるとは考えません。
私たちはよく、心の負担になっていることを「ストレス」だと言ったりしますが、この日常表現のもとになっているストレスという言葉は、もともとゴム球などに外から圧力がかかったときに生じる「ひずみ」を表す言葉でした。そこには「もともとまったき状態があり、そこに外からの力がやってきて状況をひずませる」というとらえ方があります。西洋の学者セリエによって生理学的状態を表す専門用語として生まれたこの言葉が、遠い日本の日常語としてこれだけ一般的になったのは、このとらえ方が私たちの気分によく合っていたからではないでしょうか。つまり「もともとまったき状態がある」のを当たり前ととらえる気分です。
また(「普通の」人、というように)「普通」という言葉もよく使われます。ここで普通というのは、一般的であること、当たり前であることを意味しますが、「普通」は病んでいないことも意味します。つまり「一般的=当たり前=病んでいない」、という気分がここにも顔を出しています。
精神分析は、人間を「もともとまったき状態にある」のが普通、とは見ていません。「完全」な人間がいるとも、それが正常であり普通だとも考えないのです。「病気」と「正常」をくっきり区切る線があるわけではなく、それを地続きのものとして見ています。 ②で「目に見える症状や悩みは、その背後にあって目には見えないこころの複雑な働きが、一部分見える形になって現れたもの」だといいましたが、多かれ少なかれ人間にはそうした複雑な、目に見えない広大な心の領域があって、その一部が症状として顕在化しているかどうかは紙一重の差、という感覚とも言えるでしょう。また「傷」を経験しない人生が普通だとも考えていません。生まれたときから人生は、ともすれば傷つきとなりうる体験の連続であるととらえ、子ども時代に経験する世界が無垢で無邪気なものだとも考えていないのです。そしてある意味、その数々の体験とどう出会うかかがその人をつくると考えるのです。
悩みに対して、いま現実に施せる手段があるならば、それを優先するのがよいに決まっています。相談を受ける医者の側も、もしそういう手段を知っていたなら当然それを示すべきでしょう。しかし、それでも残る悩みはあります。それではそれはすべてマイナスでしかないのでしょうか。くりかえしますが悩むことは、主体的にそこに意味を見いだして取り組んでゆく限り「単なる時間の無駄でありマイナス」ではないのです。
以上、精神分析的な考え方の特徴をお話ししてきました。まとめますと、①治療の「中身」と同じくらいそれをいれる「うつわ」も大切に取り扱うこと、②症状の背後にある複雑な心の働き全体を見てゆこうとすること、③悩むことにも意味を見いだしていること、といえるでしょう。こうした説明だけでは十分にお伝えできない部分もありますので、関心を持たれた方には数ヶ月程度実際に面接にお通いいただき、体験的に理解していただければ幸いです。
心理療法を受けると、問題点をあげつらわれたり批判されるのではないかと心配なのですが?
悩みや苦痛の中には、性質の分かっている、言葉で表せるものもあります。しかし私たちがもっとも苦しむのは、それが名付けようのない、言葉で表しようのない苦痛である場合ではないでしょうか。精神分析には、治療を受ける人がセラピストと二人くりかえし会ってゆく面接という「うつわ」の中で(ひいては治療を受ける人自身の心の「うつわ」の中で)、その苦痛が抱え容れられることを通じて消化され、やがては名付けうるものに変化してゆくという発想があります。名付けうるものは、言葉で表すことができます。言葉で表せるものについては、考えることができます。そして考えられるものは、ほかの物事と関係づけ、位置づけ、やがては変化させてゆくことができます。最初は耐えきれなかった苦痛が、少なくとも抱えておけ、それについて考えられるものに変わるのです。
しかしここで注意が必要なのは、「抱え容れる」ことは「押し込まれる」こととは違う点です。主体的にすることと強いられてすることは、外から見れば結果として同じに見えるかもしれませんが、心の世界ではまったく質の違うことがらです。
Q1. へのお答えで、「主体的にそこに意味を見いだして取り組んでゆく限り」、悩むことは単なる時間の無駄ではないと申しました。そのように、セラピストに問題点をあげつらわれ、悩みや苦痛を「押し込まれる」ことでは、治療の過程は進まないことを私たちは理解しています。
心理療法を受けるなら、お薬による治療はやめたほうがよいですか?
結論からいいますと、お薬による治療(薬物療法)と精神分析的心理療法は併用することができます。非常に強い混乱にあるときには、自分がどう感じているか・何を思っているかをつかみとりにくくなるため、お薬の力を借りて混乱をしずめることにより、今の心の状態を理解してゆくことが可能になります。その意味で薬物療法と精神分析的心理療法は、相補的関係にあるといえます。
ただしそれぞれ得意分野が違うため、①薬物療法のみで治療するか、②薬物療法と精神分析的心理療法を併用するか、③さしあたり精神分析的心理療法のみでよいかを、治療開始前に精神科医と相談して、しっかり判断することがとても重要です。
当オフィスでは、お申し込みいただいたすべての方に精神科医としての診察(必要なら検査)を行った上で、ご自身にとって①~③のどの方針がベストかをまず判断させていただきます。
(回答者 北村婦美)