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コラム

2016.11.9

真意の問題 (北村婦美)

医師となってしばらくは、内科など身体科での研修を受けていました。その後精神科病院での研修に進んでまず感じたのが、患者さんの真意をはかることの難しさでした。

その人の権利を守った医療というときに、一番根幹にあるのがその人の意思であり、それを医療者がどう汲んで治療に実現させるかということだと思います。けれども精神科医療ではその意思そのものを汲むところに、本来的な難しさがあったのでした。

これからお示しするのは、精神科研修を始めて2年目の終わりに、当時勤務していた病院の医報に掲載して頂いた小文です。(掲載をご許可頂いた吉田病院に感謝いたします。)

 

真意の問題

 内科での研修を終え、精神科研修を始めて二年が過ぎようとしている。その中で戸惑ったことの一つに、人の「真意」についての問題があった。
内科の臨床では、意識障害を伴なう場合などを除いては、ほとんどの場合、人間の真意は「表出された意思」にある(本人の言葉どおりの内容が真意である)と前提されていたように思う。しかし、精神科研修を始めて、まず治療を医療保護入院というかたちで行わなくてはならない立場に立たされ、「患者さんの真意は治療を望んでいる」という先輩の教えに、なぜそう言いきれるのかと素朴な疑問を感じながらも、実際の治療にあたっては、一つ一つ判断を重ねて行かざるを得なかった。また実際に、昏迷状態などで言語的に「表出される意思」自体がなかったり、分裂病急性期のように思考の障害が著しく、その表出が我々にとって論理的に理解しにくかったりする場合には、熟慮を経ぬままに、妥当であろうとする判断が、あるやり方で、とっさに自分の中でなされてしまっているのであった。あらためてその判断の根拠は何であるか、それは普遍的な原則であるかと問われれば、おそらくこれまで生かされてきた自分の個人的な経験から生じていて、ある程度まで多くの人に共有されていると自分が信じている原則、としか答えようのない根拠である。
上にのべたような判断のあり方にも大きな問題は含まれているのだろうが、より臨床で困難を感じたのは、一見疎通性があり意思の表出が明らかにあるけれども、その言葉通りに真意を解釈して良いのだろうかと迷う場合である。
例えば、いわゆるヒステリーのように、身体化症状がその人の言語外のコミニュケーション手段になっていると思われる場合、言語的には激しい治療拒否がありながら、治療者がそれに従った結果、精神症状が悪化してしまう場合などである。強い治療拒否を示されても、ここは折れるべきではないと判断するとき、表出される意思と別のところに、その人の真意がありうるということを前提にせざるを得ない。 そしてその判断の誤りは、最悪の場合自殺の危険を伴うのである。しかもその判断の結果、首尾よく危険を回避し得たのか、それとも表出された意思に背いてまで、その人の別の可能性を侵害したのかは、最後まで誰にも分からない。
よく「腹黒い」とか、「腹を割って話す」と言われるように、その人の真意はもっとからだの中心、たとえば腹のほうにあって、頭につながっている口から言葉で喋っていることと、からだが望んでいることの重心にありそうだ、などと考えたくなる。ゾウリムシの繊毛一本一本が巧妙な運動でその生命の維持に集中するように、ネズミを前にした猫の全身の細胞がネズミの捕獲のために収斂し首尾よく協調して効果するように、言葉がそなわった後の人間にも、からだ全体の生きようとするうねりが全体を方向づけていて、その重心にその人間の真意はあるのではないか、しかしそれならば激しい焦燥や幻覚妄想の中で衝動的な死を選ぶ人の真意・うねりはどうなっているのか、などと、とても指示箋には書けない、身勝手な夢のようなことを思いながら、苦しまぎれに判断判断の日々をおくっています。