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コラム

2017.11.4

押しつけられたものと、選び取ったもの (北村婦美)

私たちは日々いろいろなことがらについて、それを「押しつけられた」と感じたり、「みずから選び取った」と感じたりして生活しています。押しつけられたことがらはつらく腹立たしいけれども、みずから選び取ったことがらであれば、たとえ楽しくはない時でも耐えられたり、そこからやりがいを感じることすらあるかもしれません。
同じものごとであっても、それを受け取る人が「押しつけられた」と感じているか、「みずから選び取った」と感じているかで、その意味合いはまったく違ってきます。

自分にとって押しつけられたものであるときには、それはつらく苦しいことになります。日々の労働でも、自分が機械同然の手段や道具として「やらされている」と、苦役でしかないものになります。
けれども一方で、誰かしら何かしらのためにみずから選び取って働いていると感じられるときは、それは耐える意味のあることになります。

それでは、押しつけられたものはこばみ、みずから選び取ったものだけで生きていけばいいのでしょうか? ――いいえ。実際のところ、事はそう単純ではなさそうです。
私たちは同じ労働や役割でも、それを「みずから選び取ったのだ」と誇りを感じたり、時には苦しくなって「押しつけられたのだ」と投げ出したくなりながら生きているからです。押しつけられたのか、みずから選んだのか。同じものごとでも、それが「本質的に」どちらか一方であると言い切るのは難しいのです。

ならば、押しつけられたことも、みずから選んだのだと思い込むようにして生きていけばいいのでしょうか。――いいえ。その人の心の中では、本当は押しつけられたと感じている気持ちを無理にねじ曲げることが行われています。それは一時的に人間を前向きにしてくれるかもしれませんが、早晩ねじ曲げていた無理に限界がくることになるでしょう。
自分に押しつけられた労働や役割をはねのけ、隠された搾取を見抜いて注意深くこばむことも、人間にとって大切なことです。それは他人から利用されることを防ぎ、その人が尊厳ある生き方をするために必要だからです。

しかしここで難しいのは、すべてを押しつけとしてこばんでおけばよいとも言い切れない点です。
なぜならみずから選び取ってある役割を担ったり、何かのために働くことがまったくない生き方もまた、人間にとって無機質で無味乾燥な、特有の苦しさをはらんだ生き方になってしまうからです。すべての役割をこばんだ生き方もまた、人間にとって真空のように過酷であり、苦しいのです。

押しつけられ利用されることを注意深くこばみながら、みずから選んだことを、常に選び直しながら生きていけるのか。
私たちは死ぬまでそれを試されながら、生きていくのかもしれません。