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コラム

2021.1.26

コロナ禍の希望(北村隆人)

 以下のコラムは、京都いのちの電話ニュースレター第115号(2020年11月発行)に掲載された拙稿を、転載したものです。


 新型コロナウイルス感染症は、多くの人たちの生活を変えてしまった。最近は新しい生活様式が社会に行き渡ったことで、以前よりは活動を広げやすくなってはいるが、それでも誰もが何らかの自粛を迫られている状況に変わりは無い。それは多くの人にとって、大きなストレスになっているだろう。

 ただ緊急事態宣言が出されていた頃、私が精神科診療に当たる中で、はっとさせられることがあった。それは何人もの方から次のような発言がなされたことだった。「自粛が呼びかけられて、ほっとしています」と。

 この発言は、ひきこもり生活が続いている方からのものだった。なぜそう発言されるのか。それは概ね次のような理由からだった。――これまで引きこもった生活をしていることに、罪の意識を抱いていた。でも今回、自分の過ごし方でよいんだと言われているようで、それでほっとしているんです――。つまり、コロナ禍において政府から発せられた「人との接触をできるだけ減らして下さい」という呼びかけが、ひきこもりの当事者の苦しさを緩和したということだ。

 ひきこもる人たちの多くは、疲れやすさや対人関係に対する過敏さを有し、自分の心を守るために引きこもらざるを得なくなっている。しかし社会の多くの人は、そうした事情を知らずに、「学校をさぼっている」「仕事を怠けている」と考えてしまう。なぜなら多数派の人にとって、活発に社会活動を送り、多くの人と交流することは当然のことだからだ。

 ひきこもりの当事者は、この多数派の常識によって苦しめられてきた。しかしコロナ禍によってこの常識が逆転し、人と接触しないほうが善いこととされ、それが当事者の苦しみを一時的にでも緩和した。

 この皮肉な現実から、私たちは二つの学びを得ることができる。一つは、私たちが常識だと思っている考えは、絶対的な真実ではないこと。そしてもう一つは、常識が変化すれば、それによって生きやすくなる人がいるということ。

 今回のコロナ禍は、多くの人に災厄とも言うべき大きな困難をもたらした。しかしそこには、わずかな希望も存在している。それは今回の災厄によって、私たちがこれまでの常識を疑うようになったことだ。職場に行かないと仕事はできないのか。都会でないと良い生活が送れないのか。多くの人と交わることが良い生き方なのか……。コロナ禍が私たちにもたらしたこれらの疑問を考えることを通じて、これまでの常識を見直していけば、コロナを克服した後の社会は、多くの人にとってもっと生きやすいものになっているはずだ。そこにコロナ禍における私たちの希望がある。