以下のコラムは、京都いのちの電話ニュースレター第118号(2021年11月発行)に掲載された拙稿を、転載したものです。
この夏、数々の差別的発言が社会問題となり、それらに対してSNS上で激しい怒りが噴出した。特に、あるインフルエンサーから発せられた、生活保護受給者やホームレスの方々へのヘイト発言に対しては、極めて厳しい批判が向けられた。この反応に示された、「差別は絶対に許容しない」という社会全体の強い意志は、差別に苦しむ多くの人たちを勇気づけたはずだ。
しかし忘れてはならないことがある。それは、どんなに強く差別反対を唱える人であっても、無意識的に差別的発言をしてしまうことがある点だ。この点について考えるために、政治家とスポーツコメンテーターが発した、女性蔑視発言に注目してみよう。
「女性が入っている理事会は時間がかかります」。「女性でも殴り合いが好きな人がいるんだね」。
これらの発言に対する批判を受けて、両者は謝罪に追い込まれた。しかしその謝罪は真摯さを欠くものとして、多くの人に受け止められた。それはおそらく、自分の発言の問題を十分理解しないままに両者が謝罪したと、多くの人が感じたためだろう。
この二人の反応を考える際に役立つのは、「マイクロアグレッション」に関する知見だ。直訳すれば「小さな攻撃」という意味になるこの言葉は、社会的に有利な立場にいる人が、弱い立場の人に対して、おおむね無意識的に発してしまう否定的、差別的表現を指す概念である。米国の心理学者デラルド・ウィン・スーは、著書『日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション』(明石書店)の中で、こう指摘している。
誰もが社会の偏見から自由でないため、……無意識のレベルではマイノリティに敵意ある感情を抱いている。(p19)
この指摘が重要なのは、次のことを示唆しているからだ。――社会は多数派の価値観に強く影響されているため、多数派は弱い立場の人に対して無意識的な偏見を抱いている。そして、その偏見に基づいて行われる発言は、マイクロアグレッションとなって弱い人たちを傷つけている。しかし、そのプロセスは無意識的なものであるため、そこに含まれる差別性に、多数派の人はなかなか気がつけない――。
つまり私たちの誰もが、政治家たちのように、弱い立場の人に対して無自覚に差別的言動を取る可能性があるということだ。ただその自覚は、私たちの内部に不安と罪悪感を引き起こす。だからこう否定したくなる。「蔑視するのは、あの政治家たちだけで、自分は関係ないよ」と。
しかしそうした否定こそが、この社会で無意識的に生じる差別的言動を温存することにつながる。だから私たちは自身の偏見を自覚し、修正する努力を行わなくてはならない。もちろん、それは苦しい取り組みだ。だからまずは無理のない範囲からでいい。あるいは、この努力を行う人へ敬意を示すだけでもいい。そうした努力が蓄積することによって、必ずこの社会の共生可能性は高まっていく。