以下のコラムは、京都いのちの電話ニュースレター第122号(2024年3月発行)に掲載された拙稿を、転載したものです。
一昨年来、様々な事情からカルトに注目があたり、いくつかの宗教団体による搾取と虐待の実態が、ニュースやワイドショーなどを通じて広く報道された。それが契機となって、この深刻な問題が多くの人たちに知られるようになったが、ただ報道の大半が宗教的カルトに焦点を当てたものだったため、多くの人たちは自分とは関係のないものとして問題をとらえたかもしれない。
しかし私たちが注意を向けておかねばならないのは、カルトは宗教団体に限られるものではなく、医療やカウンセリングなどさまざまな領域において発生しうるものだということだ。この点について米国の精神分析家ロバート・ショーは、カルトは恥や恐怖によって相手を支配する関係であり、それは一対一の関係でも生じうるものだと指摘している。
この理解に基づけばカルト的な関係性の芽は、心理支援者が当事者に対して「こうしないと失敗しますよ」、「その選択は危険ですよ」などと強い調子で自分の意見を伝える場合にも生まれることになる。なぜならそうした関与には、たとえ善意から行われるものであっても、当事者の不安を煽って自分の主張に従わせようとする支配的側面が含まれているからだ。もちろん電話相談のような一回だけの支援では、このような発言がなされても両者の関係がカルト化することにはならない。しかしこうした対応が支援者から繰り返されれば、当事者は自分の考えに自信が持てなくなり、いつの間にか主体性を奪われていくことになる。
こうした関係に陥らないために、支援者は何に気をつければよいのか。この点について重要な示唆を与えてくれるのが、宗教的カルトについて述べた、批評家の若松英輔の次の発言だ。
人には信じる自由だけではなく、迷う自由もあると思うんです。人の迷いまで奪ってしまうのは、とても恐ろしいことです。だから、人が立ち止まり、迷い、そして何かを探求することが、宗教を信じることによって失われていくのだとしたら、私は残念な気がします。
(若松英輔ほか『問われる宗教と”カルト”』 NHK出版)
この発言の中の「迷う自由」に注目したい。私たちは、迷い続けている人を前にすると、その迷いを早く解消したくなり、「迷ってないでこうしなさい」などと圧をかけて解決策を押しつけたくなる。そうした関与は、基本的な権利であるはずの「迷う自由」を、当事者から奪いかねない関与であることを、若松の言葉は教えてくれる。
だから私たちが人を心理的に支えようとするとき、折に触れこう自問しなくてはならない。私たちは相談者の「迷う自由」を尊重できているだろうか。本人を置き去りにして、勝手に進むべき道を押しつけてはいないかと。