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コラム

2018.1.21

やまゆり園の事件に思う(北村隆人)

 以下のコラムは、京都いのちの電話ニュースレター第109号(2017年11月発行)に掲載された拙稿「存在に意味を与えるもの」を、改題して転載したものです。


 2016年7月、相模原の障害者施設に元職員の男が侵入し、19人の命を奪った。犯人は重度障害者は生きている意味がないと発言し、ウェブ上では、この発言を支持する声もあがった。

 この不幸な事件が明らかにしたのは、犯人の中だけでなく、この社会の内部にも、人を人として尊重しようとしない風潮が巣くっているということだ。私たちの人間性を蝕むこの風潮に対して、どうやって抗えばよいのだろうか。

 その点について示唆を与えてくれるのは、芸人の太田光さんがラジオ番組で述べた次の発言だ。「施設にいる人たちは、たしかに普通の言葉を喋れないかもしれない。色んな表現ができないかもしれない。でも、彼らの周りには、彼らを大切に思って、彼らが生きていてくれなかったら困るって人、たくさんいて」「彼らがウーッって言ったときに、『これは何を表現してるんだろうか』って、一生懸命受け止めようとしてる」「本当に大切なのは受け取る側の感受性」。

 太田さんが述べるように、たとえ十分な表現がなされていなくても、「彼ら」の心の動きを理解しようと努力することがとても大切だ。なぜなら、その努力を多くの人が行うことによって、「彼ら」を含む全ての人の存在の意味が膨らんでいくからだ。

 人間の存在の意味。それは、他者を理解しようとする私たちの努力によって生まれる。たとえば、「死にたい」と言って電話をかけてくるコーラーがいるとする。その時、相談員がその言葉の意味を深く理解しようと努力を重ねたならば、その努力に支えられてコーラーも、次第に自分の苦しみや存在にも意味があると感じられるようになるだろう。

 だからこの社会の風潮に抗うには、相模原の事件で亡くなった人たちにも思いを馳せることが大切だ。その人たちはどんなハンディキャップを持っていたのだろう。施設の中で、どんな生活をしていたのだろう。そしてどんな思いで生き、どんな苦しみの中で亡くなったのだろう。そう問いながら、さまざまな情報を摂取して理解を深め、その理解を多くの人たちと共有する。

 そうした営みを続けていけば、犠牲者の方々が生まれてきたことやこの世に生きたこと、そして無残な死を迎えてしまったことにも意味が生まれていく。そうした無数の努力を通じて生まれる存在の意味の堆積こそが、人を物のように見なして恥じることのない社会の風潮に抗うための何よりの力となる。